●プロローグ 1960年後半から1970年初頭の日本は「今日より明日を夢見る時代」でした。その象徴が1970年の大阪万国博覧会であり、第17回東京モーターショーだったと思います。東京モーターショーの「未来」の中にあって、実際に走ることを感じさられたのがマツダRX-500であったことが思い出されます。 RX-500は、東京モーターショーを皮切りに全国各地、世界各地のモーターショーで展示されました。1978年にサバンナRX-7の誕生した頃、黄色からシルバーに塗り替えられました。そのRX-500はRX-7のプロモーションに活用された後、30年間倉庫の奥に眠っていました。 今回、RX-500を広島市交通科学館が「まぼろしのスーパーカー展」に展示するために、マツダの協力を得て30年ぶりに持ち出し修復を終え展示となりました。 RX-500の修復はコジマKE007をグッドウッドで走らせた、ガルフォースワン栃林氏が担当しました。 8月2日に開催されたトークショーは、200人以上の聴衆の前で、福田成徳氏(エクステリアデザイン担当)、濱谷照夫氏(シャーシー設計担当)、栃林昭二氏(修復担当)の3名で開発秘話、レストア秘話が一般公開され、秘話に引き込まれ1時間は瞬く間に過ぎてしまいしまた。その秘話の中から幾つかお話しましょう。 ●RX−500の誕生 マツダ創立50周年を意味する500番を与えられた車の開発記号はX810。これは1968年の10番目の試作番号を意味します。1970年1月、創立50周年記念の会場で1/2のクレイモデルが公開され、好評を得て、実車製作のへと進みました。ところがこの実験車両には特別な意味が込められていました。それはコスモ・スポーツの後継モデルの先行リサーチのミッドシップ実験車として1台製作されたのです。では、なぜ実現しなかったというと「ちょっと大きくなりすぎた」とのこと。全長×全幅×全高が4330×1720×1065、今となっては大きくありませんが、当時はそう評価されたようです。1968年から企画が始まり1970年7月に完成・公開となると少し生まれるのが早かったようです。 ●空力が生んだエクステリア 先行リサーチの実験車だからデザインがどうのという前に、まず高速で走って最も効率の良い形にすることが決まっていました。したがって、RX-500は風洞で仕上げたデザインで、当初0.37だったCd値を、風洞実験の結果0.312まで下げることに成功したそうです。まさに、RX-500は空気が生んだデザインとも言えます。 空力を向上させるには砲弾型が一番、けれど、この砲弾スタイルだけで終わらないのが福田さんの凄いところ。クーペとレーシングタイプまでデザインされていたそうです。今回1/5のクレイモデルを新規に作ったときに、それらも一緒に製作されました。特にレーシングモデルのウィングなどは福田さん自らバルサ板で製作されたそうです ●アルミホイールの試作 モーターショーの展示用に急遽アルミホイールを作ることになり、時間もないため「走らせるときは鉄ホイールに交換する」ということで強度計算も充分出来ないまま作ったそうです。今では、8J、9Jのアルミホイールといっても驚くことはありませんが、当時は最大で6J、レース用でも鉄のワイドホイールの時代であったことを考えると未知の領域だったとのこと。さらに、デザインが決まっていて、かつ後ろ側には4ポットキャリパーがあり苦労は絶えなかったそうです。 そんななか、名古屋モーターショーで小林彰太郎さんが、展示車そのものを屋外に乗って出られたので関係者一同青くなったという当時のエピソードが披露されました。 ●250kmから車を止めること ブレーキは、時速250kmの速度から安全に止めることを優先し、2系統4ポットキャリパー、4輪ベンチレーテッド・ディスクを選んだとのこと。勘違いしてはならないのがレーシングカーは減速するブレーキ、市販車は止めるブレーキであることです。 この仕様は当時では画期的なもので、1960年後半のレーシングカーで一部の車両に採用されていた機構です。また、構想段階では飛行機のようなエアーブレーキも追加しようとしたが却下されたそうです。 ●一人歩きした12Aエンジン RX-500のエンジンについて、東京モーターショーで型式が公開されておらず、巷では12Aペリフェラルポート・エンジンと噂されていました。それは1970年5月にカペラが市販され、12Aエンジンが搭載されていたことに起因していると思われます。 実際に搭載されていたエンジンは10Aエンジンで、1970年スパ・フランコルシャン24時間レース用のエンジンを10機作るときに、もぐりこませて作ったそうです。なぜレーシング・エンジンかというと、当時入手出来る最高出力のエンジンということでスパ・フランコルシャン用の250馬力以上と言われるワークス・エンジンが選ばれたそうです。 「CAR GRAPHIC」1971年2月号での小林彰太郎さんのインプレッションはワークス10Aペリフェラルポート・エンジンとなっています。当然、小林彰太郎さんはご存知なわけ(と思われる)で、平然とリポートするところが凄い。 なお、ミッションは、RX-87ルーチェ・ロータリークーペ用のミッションを流用したそうです。縦置きFFの13Aエンジンを持っていたからリア・ミッドシップが出来たということです。 ●RX-500は一台 ボディカラーが緑、黄、銀の3色、リトラクタブル・ライトと埋め込み式の2種類のヘッドライト、エクステリアの微妙な違いなどから、複数台製造されたのでないかと説もありました。それらの疑問は、今回のトークショーで全が明らかにされました。 RX-500はコスモ・スポーツの先行リサーチ実験として一台のみ製造され、マツダ・イメージカラーの緑をまとって製造されたそうです。黄は、1970年の東京モーターショーのディスプレイを黒川紀章氏が担当し、ボディカラーをライトイエロー、室内をレッドに統一したことによります。銀は、1978年登場の初代RX-7のプロモーションに合わせて銀に塗り替えられたそうです。 リトラクタブル・ライトと思われていた緑と黄のRX-500、実は走行実験車両にヘッドライトは不要ということでヘッドライトは無かったという事実が判明致しました。 ●タイアは奇跡的に復活 38年間の歳月、とくに30年間放置されていたRX-500のタイアは空気が抜け変形していたそうです。ところがタイアの保存状態がよく、右側2本はチューブを入れたそうですが左側2本は完全復活したそうです。デザインという観点からみても当時のタイアでないとデザインが変わってしまうので幸運だったとのことです。 ●ストーリーは続く 今回修復を担当されたのは、日本製F1マシン、コジマKE007をレストアされてグッドウッドを走らされた栃林さんです。 30年間放置されていたが程度が良いため現状維持で修復することを決定、10%程度の塗装のほかは、清掃してひたすら磨いたとのこと。栃林さんはグッドウッド主催者から「走らないクルマは要らない」と強烈な洗礼を受けため、エンジンさえ直ればいつでも走れるように修復・整備されたそうです。 トークショーが終わったあと、RX-500を前にして栃林さんと「ペブルビーチ・コンクール・デレガンスに出展して、ラグナセカを走らせくれないか」と盛り上がりました。今回開発秘話が公開されたことでヒストリー性も充分、モデルの希少性もあるプロトタイプですから、ペブルビーチに出展する価値はあるのではと思います。RX-500の行く末は分かりませんがストーリーは続きそうです。 ●RX-01と鏑 RX-500のトークショーの開催に合わせて、RX-01(1995)と鏑(2006)2台のコンセプトカーが特別展示されていました。鏑とRX-01が並んでの展示は初めてと思います。